他のページにもお知らせしましたが、西宮で宮沢賢治の絵画展とコンサートを同時開催します。音楽と美術と文学のコラボ、是非お越しくださいませ。
宮沢賢治の作品のコンサートを、賢治の故郷花巻で開催致します。
甲子園初出場の球児のような気分ですが、心を込めて演奏したいと思います。
年末に、京都の町家の素敵なサロンamorphousで、「セロ弾きのゴーシュ」のコンサートをしました。中庭の緑が見える中での宮沢賢治、とても楽しく演奏させていただきました。
さて、同じamorphousで、ヴァイオリンのリサイタルの伴奏をします。京都芸大在学中の気鋭のヴァイオリニスト、大石彩代さん、彼女は数々のコンクールで入賞し、素晴らしいテクニックと素直な感性の音楽家です。ブラームス、モーツァルト、シェーンベルクと盛りだくさんのプログラムです。是非、お聴きくださいませ。
コロナが落ち着きつつあるこの頃、秋にコンサートを致します。
チェロとピアノで、アメリカの作曲家バーバーやハンガリーの作曲家コダーイの作品を中心としたコンサートと、宮沢賢治の世界と銘打ち、セロ弾きのゴーシュ、アメニモマケズ、などよく知られた賢治の作品に私が書いた曲を中心としたコンサートです。永訣の朝は、死の床にある賢治の最愛の妹、とし子との別れを書いた有名な詩です。このコンサートのために歌を書きました。賢治の詩の世界は、時空を超えるような場面があり、また美しく、激しく、かつ知的な、と様々な光を放つものでした。
チェロは高岡奈美さん、宮沢賢治の歌を歌ってくださるのは和田友紀菜さんです。お二人とも素晴らしい音楽家です。
ご来聴くださいますようお願い申し上げます。
春だというのに、毎日、戦争のニュースを見ていて、心が晴れません。
友人のはやしみほこさんに優しい絵を描いていただき、ウクライナの子守唄の動画を作りました。もしよろしければ、ご覧ください。
一日も早く、ウクライナに平和な毎日が戻りますように。
https://youtu.be/WquE3yvNUVU
1年くらいで収束するのかと思っていたコロナ禍、収まりつつあるように見えますが、まだ終わりは見えません。
自分自身も生活の変化は大いにありましたが、何より受験生と接する機会が多々あるために、この2年は特に生徒たちの健康に気を遣いました。学校の授業では真冬でも窓を開け放ち、コートを着て講義をしました。
今年は、個人レッスンでの受験生はいなかったのですが、昨年は3人いましたので、実技試験当日の体調で受験すらかなわなくなる事態にならないように、よくオンラインでレッスンをしました。
受験はもちろん心配でしたが、学校生活でも行事が無くなることが多々あり、私も生徒たちがどんなに辛い思いをしているかと心を痛めておりました。
ある日、思い切ってクラスでみんな休校の時何を考えていたか、聞いてみたのです。すると、9割以上の生徒が、「自分のペースでゆっくり休んだり、勉強したりできた」と肯定的に、どちらかというと良かった、とまで言っていました。
可哀そうに、と思っていた私は驚きましたが、皆音楽を専門に勉強する生徒たちであり、普段から練習や自主的に研究することが身についているので、自分の生活や心身を健康に保ち、楽しむことができたようです。
昨年の受験生も、京都芸大など志望の進路に進学できました。
たくましい生徒たちに、私も励まされました。今年も良い春となりますように。
ハンガリーの作曲家としてはバルトークが有名ですが、同時代にコダーイがいます。彼はバルトークとハンガリーの民族音楽を蒐集し、研究、作品に取り入れていきました。
ハンガリー音楽と言いますと、元々の民族音楽より、ハンガリーのジプシー音楽(今、ジプシーではなくロマ民族という呼称が定着していますが、音楽に関しては蔑視の意味がこめられないと思いますので,あえてこの呼称を使わせていただきます。)が広く人気があり、それこそがハンガリー音楽と誤解されてきました。その中で、バルトークやコダーイがハンガリーの民族音楽を掘り起こし、独自の作品を作り上げてゆきました。
そのコダーイの作品の中では独奏チェロのソナタが大変有名ですが、今回ピアノとのデュオの作品をアップしました。大変美しいながら、ごつごつしたハンガリーの民族性を感じられる、素晴らしい作品です。お楽しみくださると嬉しいです。
Sonatina~Cello&Piano~
タンゴの革命児ピアソラのタンゴオペリータというタンゴのようなオペラのような斬新な作品の中から7曲をピアノトリオに編曲したものをアップしました。自分でとても愛着を持っている曲です。ご興味のある方は聴いてくださると嬉しいです。
コロナ禍で世の中が一変し、私も慣れない中、オンラインレッスンを始めました。初めは戸惑ってばかりで右往左往していましたが、何とか現在の状況の中でも音楽の勉強を続けられるよう、生徒さんと協力しながら頑張っています。
また、毎年行っていたコンサートも中止せざるを得ず、どうしたものかと思案しておりましたが、音響専門家の方々のご助力を得まして、家に録音機材をそろえました。本当に恥ずかしいくらいの機械音痴の私ですが。こんな時にこそ新しいことに挑戦しようと気持ちを奮い立たせ、勉強しています。
機械の扱いに覚束ない中、若くて才能あふれるヴァイオリニストの森田麻友美さんとコダーイのアダージョという曲を録音してupしてみました。慣れないことばかりで大変でしたが、それ以上にとても楽しかったのです。動画を撮ってみると、思ったより暗い画面で、ライトをもっと用意しなければ、など発見が多く、反省しきりです。これから勉強して少しでも皆様に楽しんでいただけるようなものを作れるようになりたいと思います。
Kodaly Adagio http;//youtu.be/G6ukTiFHt-g
もしよろしければ、お聴きくださいませ。
高校音楽科の授業で、J.S.Bach 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第1番Adagioの分析をしました。その厳かな美しさもさることながら、たった一台のヴァイオリンの音楽の中に、多声部の音楽が織り込まれている、という説明をしたのですが、解りやすいように、私が3台のヴァイオリンに編曲しました。一切、余計な音は加えず、しかし、ここは楽器の限界があるのでソロヴァイオリンでは音が切れているけれど、音楽的には和音はつながっているだろうというところは、音を維持しました。
それを、生徒たちが演奏してくれたのですが、衝撃でした。ソロヴァイオリンでやるときには、和音を一度にたくさん響かせられないため、分けて弾き、ある種劇的な効果があります。和音は続いているけれど、ソロヴァイオリンでは和音は無くなるところはある種の緊張感が生まれます。そういうことが一切無く、淡々と和音と旋律の絡みがあり、静かな教会のステンドグラスが光っているような神々しい美しさがありました。
長年、聞き知った曲の全く違った面からの美しさに触れ、バッハの偉大さに打ちのめされました。
今年もみなと神戸花火大会の晩にコンサートをします。
今年はチェロの水野奈美さんとのデュオで、カプースチンのジャズ、ピアソラのタンゴ、コダーイのハンガリー音楽などを演奏します。
とてもお洒落な曲ばかりで、窓から見える花火とともに、楽しんでいただけると思います。
ご来場を心よりお待ちしております。
少し前に、徳島の大塚国際美術館に行ってきました。
行ってみると、とても楽しかったです。私は今後世界中を駆けめぐって名画に現地で出会える、という可能性はないと思いましたので、膨大な古今東西のあらゆる時代の絵画に会えたことは、とても有意義で貴重なひと時でした。
時代を辿っていくことで、人間はいったい何を描いてきたかということがおぼろげに感じられました。祈りであったり、生き生きとした人間の生活であったり、戦争であったり…。
クラシック音楽、というと、上流階級のお嬢さん、のようなイメージを持つ人が多いかもしれません。
しかし、音楽もまた、他の芸術と同じように祈りであったり、呪術であったり、祭りの音楽のような恍惚、はたまた戦争の合図であったりしたわけです。
だからこそ、決して綺麗ごとでなく、魂の底から人に訴える力を持つものなのだと思います。
学生の頃、使っていた楽譜を何気なく見ていると、先生に教わったことの書き込みなどがあり、その内容に、もちろんその通りだな、それにしてもこんなこともできてなかったのかと、思います。そして、近頃は、先生がこういう言い方で私に教えてくださった理由がわかる、と思うようになりました。
そして、教わったことで意識の上では忘れていることを、自分が教える立場になったときに、まったく同じような言葉や、比喩で説明していることを発見して、とても驚くことがあります。
今までの人生の中で、素晴らしい先生に幾度か出会えました。
教えていただいたことはすべてその先生の生き方や、音楽に対する姿勢に深く根差したもので、単に指をこう動かすとか、音をこう書くとかいった次元のものではありません。指をこう動かす、その裏にある深い意味、それによってどんな表現をしようとしているか、先生はどんな人間であるか、この音楽をどう解釈しているか、そして自分はどういう人間であるか、自分はどう表現したいと思っているか。そんなことをいつも真剣勝負で突き詰めてくださった、本当に凝縮された素晴らしい時間でした。
どれだけ教わったことが身についているか、そして自分で切り拓いてこられたか、甚だ心もとないですが、先生方は私にとって、まさしく親のようで、育てていただいたことに心から感謝しています。
今月、京都と神戸でコンサートをします。
京都では、宮沢賢治とピアソラ、というユニークな取り合わせのコンサートです。編成も歌、語り、二胡、チェロ、ピアノというこれまたユニークなものです。
私の作曲や編曲の作品に、ダンスや劇の要素なども取り入れた、素敵な舞台になっています。演奏者の方々は勿論、演出、舞台、照明、音響と多くの方が力を合わせて作り上げておられ、感謝と感動の一言に尽きます。
アメニモマケズの詩を歌曲にし、セロ弾きのゴーシュの物語に音楽をつけました。そしてピアソラの情熱のタンゴオペリータをダンスも交え、上演します。
クリスマスイヴには、一転して暖炉のそばでゆったりとヴァイオリン、チェロ、ピアノを楽しむイメージです…暖炉はありませんが。
チャイコフスキーの四季の10月、11月、12月とピアソラのアヴェ・マリアをピアノトリオに編曲しました。ドビュッシーのチェロソナタ、モーツァルトのヴァイオリンソナタも演奏します。
師走の慌ただしい時期ですが、お越しくださった方に、楽しんでいただけるよう心を込めて頑張ります。
皆様もどうぞ良い年末をお過ごしください。
部屋を整理していたら、私の子供の頃の写真やら楽譜やらが出てきて、ついつい手に取って見入ってしまいました。
そういうものを見ていると、その時代の自分に戻ってしまいます。
ああ、こういうこと考えていたなあとか、こんな音楽が好きだったとか。
そうして今振り返ってみると、案外根本的に自分は変わってないなと思います。そして、その頃なぜそれに惹かれるか解らなかったこと、何を自分がしたいかわからないけどこれが気になるとか、嫌いであるとかいうことが、今の年齢の自分からすると、ああ、きっとこうしたかったんだな、と納得できたりします。
レッスンで、大人の方もそうですが、特に小さなお子さんのそういう感性を、大人目線の世の中の規範に合うように型にはめ込んだりせずに、大切に見守っていけたらと思います。音楽はそうやって自分と深く対話し、自分を探索していくものだと思いますから。
いろいろな生徒さんとの出会いがあるのですが、近年、とみに増えているのが、クラシックだけでなく様々なジャンルの音楽を楽しみ、自らも作り出し、演奏する若い世代の人たちです。
私たちの世代は、少なくとも私の周りには、クラシック一筋、という人が多かった気がするのですが、この頃はクラシック音楽のレッスンもしっかり頑張ってます、そして違う分野も興味があります、または専攻の楽器も勉強し、なおかつ作曲や編曲もやろうかな、とか、実に幅広く、軽やかに音楽を自分の言葉として楽しんでいる人に出会うことが増えました。
私の詳しくない分野であると、私がいろいろ教えてもらいます。ああでもない、こうでもないと、話をし、それがとても楽しく、私も刺激になります。これからの世代の音楽を垣間見ている気がして、わくわくします。
昨年に引き続き、神戸の花火大会の日にコンサートをします。会場の窓から、チラシのようにはいきませんが、花火が見えます。ジャズ、タンゴを取り入れたプログラムで、カプースチン以外は、私がピアノトリオに編曲しました。お酒と軽いお食事と、花火と音楽。楽しい夏の夜になればと思っております。どうぞご来場くださいませ。
高校の授業で、私が独断と偏見で決めた「高校生のうちに必ず聞いておこう」必修曲があります。
そのうちの一つが三善晃のレクイエムです。
三善晃は4年前に亡くなった世界的な作曲家で、長年桐朋学園大学の学長を務めておられました。学長と言っても、学生たちに授業、レッスン、時には遠足までご一緒してくださる先生、でした。相撲が好きで、料理が好きで、私のレッスンの時に、「ご飯を1合だけ炊くにはこれが1番」と横川駅の釜めし弁当の釜を持ってきてくださる、大好きな先生、でした。
亡くなられた今となっては、次の世代が決して直接会うことができない三善先生のこと、演奏され続けるだろう音楽の事を話しておこうと思っています。
そして、難解で理解不能と思われがちな現代音楽、という枠を超えて、生徒たちが心を揺さぶられる音楽体験を持つことができたらと思っています。
ヴァイオリンのコンクールの伴奏をしてきました。
出場者はものすごく練習して、予選で選ばれてきた中で最高の演奏をしたいと、当然誰もが思っています。
それを出来るだけ応援するのが伴奏者の役割と思っていますが、果たしてどう応援するのが良いのか、その時その時で考えてしまします。
音量とか音色とか自分の音楽的立ち位置とか…。共演者の個性とか。
どうしたらヴァイオリンの音がより説得力があるように聞こえるのだろうかとか、ヴァイオリンを際立たせるのがよいか、一緒にアンサンブルを緻密にするかとか。
何日も考えているうちに、頭が痛くなって、開き直ってしましました。音楽が私に要求していると感じていることを伸び伸びやってもそう間違いはないのじゃないか、と。それが勝ち負けが出るコンクールという場でどう評価が出るかわからないけれど。
コンクールはリハーサルがないので、会場で他の人の演奏を聴き、楽器のバランスを考えます。その上で、今はこれが正解、と自分が思えることをやっていくことにしました。
なんだかんだ言いながら、楽しかったです。
今年の秋、お若くて、とても伸びやかで素晴らしいヴァイオリニストの方の伴奏で、何度か和歌山に行きました。ラヴェルのツィガーヌやプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲などのピアノ伴奏です。
大阪まで出かけなくても、地元の方たちに楽しんでいただけるようにと、心を込めて企画されたコンサートで、私もとても心地よく演奏させていただきました。
その時、楽屋でお弁当を戴きました。容器が、スーパーのコロッケとかのお惣菜を入れるような透明のプラスチックのもので、結構小ぶりに見えました。地元のお店のものだそうです。失礼ながら、お洒落とは言い難い。
戴いてると、かなりのボリュームです。おかずは、私がお弁当作りに使うようなアルミの小さなカップに入っているのですが、一体どれだけの種類があるのか途中から数えてみたら、10種類を超えていて、それがぎゅうぎゅうに詰め込まれていました。
全く虚飾がなく、ただただ心のこもったお弁当を戴いているうちにいつしか無口になり、その会場の雰囲気とともに、何だか心に深く感じる物がありました。
私もこのお弁当のような演奏をしたいと思います。
やらなきゃいけない事がいろいろあるのですが、楽譜を眺めています。
歌曲の楽譜ですが、別に伴奏するから見ないといけない、とかそんなことはないのです。
綺麗だ、と思ったから、そのことを考えたくて、楽譜をながめ、音の仕組みを考え、…そして、美しい理由が完全に解き明かされる訳もないけど、自分なりに面白いなあと思うことを見つけ、やっぱり綺麗だなあと思う。
オーケストラと歌の版も見て、おお、こんなオーケストラの使い方をしている、としみじみ味わう。
それから自分で弾いてみたり、音源を聞いたりして、美しいとため息をつく。
お酒はあまり飲まないのですが、少しアルコールでもいただきながら音楽に浸っていたい気分。
良い秋の宵です。
(2017.9.27)
先日、コンクールの伴奏に行きました。ヴァイオリン部門です。自分の出番が終わった後、しばし、出演者の方たちの演奏を聴いて楽しんでいました。
以前、他のコンクールで、やはり伴奏していた時、いくつか前の出番のお子さん、まだ小学生くらいのお子さんでしたが、どうやら伴奏をなさるのは、お母様のようでした。お母様がお子さん以上に緊張されてピリピリしていて、何か子供が聞いても、「ほっといて頂戴!」といった感じで。そうだよなあ、いくら自分ではなくて子供のコンクールといっても、あがるときはあがるよなあと思いつつも、ちょっとお子さんが気の毒に思ったことがあります。そのお子さんは、自分で何でもやってしっかり演奏していました。
今回、ヴァイオリンの方たちの立派な演奏は勿論ですが、やはりピアノ伴奏もとても勉強になりました。
皆さん素敵だったのですが、聞いた中で、特に技術的にも音楽的にも素晴らしい伴奏をなさった方がいらっしゃいました。すごいなあと、感心していましたが、聞いていくうちに、どうも、肝心のヴァイオリンが冴えなく思えるのです。なんだか、非常に知的で立派なお母さんの後ろにいるおとなしい子供みたいな。(おそらく、この場合は母子ではないと思われました。)
うーん、難しいなあ。大人のプロ同士だったら、あの伴奏はとても素晴らしい、しかし、ヴァイオリンのあの学生さんのコンクールの場で、ヴァイオリンを際立たせるために、もうちょっと、立ち位置を後ろにして見守る、というのが良いのか、或いは音楽に忠実に、自分の感性に忠実に、生徒にそれを突き付けて真剣勝負でついて来い、それこそが本物なのか…?そして、生徒さんも伸びていく?
考えながら舞台袖にいたら、その方が舞台から引き上げるところに遭遇しました。ヴァイオリンの学生さんと歩きながらも、熱く音楽について語っておられました。 ―いいなあ、こういう音楽に対する熱い思い、と思わずニヤニヤしてしまいました。
何が正解かわかりませんが、楽しい一日でした。私も日々考えていきたいです。
(2017.8.17)
大学時代に親友の伴奏をしていました。元々アンサンブルが好きでしたし、学生時分のことですから思い切り時間をかけて、フレーズや和音の意味や相手がどうしたいとか、どう自分がフォローするか、そもそもどんな音楽であるか、など、徹底的に考えて話し合って、ついでにおしゃべりもして夜通しなんてことも。
その頃はどれだけお互いに分かり合えるか、一つの音楽を一緒に目指せるかということがこの上なく楽しかったのですが、ついに先生から「仲良くやりすぎていて溶け込みすぎる。もっと個々の味が出たほうが良い。」と言われました。しかし、学生時代に深く他者の音と関わる経験は、かけがえのないものでした。今でも、彼女とは仲良しです。
今、アンサンブルをしながら、自分の立ち位置が学生の頃よりは遥かに広がった気がします。ただピッタリ合わせるだけでなく、ちょっと距離を置いて、ふーん、とうなずいていたり、煽ってみたり、わざとマイペースに演奏してみたり。
そしてレッスンをしていても、今この生徒さんに何をどういう表現でどこまで話すか、ということについても、その時その時のライヴと言いますか、自分の表現したいことを今、どのように、と考えることはとても似ている気がします。
思うに、これは音楽だけの話ではなく、きっと生きていく上で誰もが経験する人との関係性なのだろうなあとこの頃感じます。自分の普段の生活の中で人と関わっていくことで自分が成長し、その時々の自分の思いが良い悪いでなく、表現できるとしたら、やっぱり音楽は楽しい、と思います。
(2017.8.7)
今月は年に一度の発表会をホールでしました。
生徒さん皆さんそれぞれで、出来ばえに納得がいかないから出ませんという方も、怪我をして涙を飲んで出場断念の小学生、またものすごく忙しいスケジュールの中、何とか頑張って本番を迎えて晴れ晴れしておられた方、受験勉強で大変だけど、私と連弾なら出ようかなと楽しそうに連弾していた高校生、本当に様々でした。
今回はヴァイオリンとチェロのプロの演奏家に来ていただき、希望者がピアノトリオを演奏しました。正直、ピアノソロだけでも大変なのに、トリオなんて出来ない、と思われる人が多いかなとはじめは思っていましたが、結構希望者がいて、大層皆さん頑張っておられました。中には、ソロにトリオにサクスフォンにと3つステージに出た猛者も。
中に、今までアンサンブルに手を挙げたことのない小学生の生徒さんが今回はやろうかな、と言い、ソロとトリオと両方例年よりずっと頑張っていたのが、心に残っています。そしてやってみると、今まで間近で見たこともない弦楽器の音、豊かな響きと歌に驚いていたようです。
大人になっても、憶えていてくれるといいな、と思います。
他の生徒さんにとっても、それぞれ楽しい一日になって、心に残る思い出となっていればこんなに嬉しいことはありません。
来年はどんな楽しいことをしようかな。
(2017.5.29)
このところ、ピアソラの音楽の編曲をしています。本当に面白くて仕方ありません。
演奏してくださる方たちも、「ピアソラ?いいですね!」と喜んでくださる。その魅力は何だろう、と考えます。
ピアソラは多種多様の要素が混在しています。アルゼンチンは移民の国、その中で生まれたタンゴは既にいろいろな文化が混じりあっています。
また、ピアソラはクラシックの音楽家になりたくてパリに留学したこともあります。ピアソラの音楽には、フーガなど明らかにクラシックの音楽由来のものやジャズの影響も見受けられます。(フランス音楽の香りも…)
思うに、ピアソラの音楽には、人が自分の中で何かの接点を見つけやすい裾野の広さみたいなものがあるのかもしれません。
一方、多種多様な要素、というのは音楽自体が散漫なものになる危険性も孕んでいます。しかし、そこがピアソラの音楽の真骨頂、腹の底から湧き出るような歌やリズムは決して上滑りなごった煮とはならず、混じりあった物の凄まじいエネルギーを放ちます。
クラシックは貴族的な音楽、ととらえられている面があるかもしれません。しかし本来、音楽はジャンルは何であれ、腹の底から湧き出るような魂の叫びであると思います。そんなことを思い起こさせてくれるピアソラの音楽でした。
8月に神戸で編曲した物をまとめてコンサートを致します。どうぞお越しくださいませ。
8月5日〈土)ピアジュリアン 神戸三宮駅前 19:30~
ミュージックチャージ2100円
お問い合わせ・ご予約078-391-8081
(2017.5.3)
4月に入ると、お正月よりも新しい年に入った気がします。
昨年度の二人の受験生は、めでたく志望校の京都芸大、県立西宮高校音楽科に合格して笑顔で報告してくれました。音楽学校は入学してしてからが勉強のしどころ、望んだ道を元気に進んでほしいなと思います。
さて、昨日中学生、高校生対象にシューベルトの歌曲集「美しい水車小屋の娘」を取り上げ、その詩と音楽の関わり、和声や調の設定などについて説明しながら、歌の世界を存分に楽しみました。
中盤、詩の中で若者と水車小屋の娘が両想いになりかけて、小川のほとりに座っているが、若者は切なくて涙が出てくる。雨が降ってきて、娘は「帰るわ」と言う。
何で帰ったんだろう、と話し合いました。
「え、泣いてるし、雨も降ってきたし…」
「早く帰りたいし」
「ま、一回会ってみたけど、ちょっと自分には合わへんな、と」
ーええーっ!じゃあ、この恋は見込みなし?!と聞くと、
全員「あかんやろなあ」
ーでも、その次の曲で両想いになるんだけど、と言うと
全員「??」
なかなか、ロマン派の世界を理解し難い可愛い生徒さんたちでした。
(2017.4.3)
大人の方のレッスンがとても自分にとって刺激になっています。
初心者であるとか、ブランクがあるとか、そういった技術的なことはさておき、皆さん音楽にかける思いが並大抵ではないのです。日々の忙しい生活の中で、楽器と向き合い、考え、工夫して、心から感動しておられる、そういう姿は本当にこちらが学ばせていただくことが多いのです。
実生活の中で、喜びも悲しみも、仕事も家庭も、育児も介護も、と様々な人生を歩んでこられて、そして音楽に向き合われるのは、音楽家を目指して頑張る子供さんも勿論立派ですが、また違った味わいがあります。
子供たちのレッスンで、「いろんな美しいものに触れたり、遊んだりも大切だからね」と、誰も言いますし、私もそう思います。しかし、本当に一生懸命音楽をやっている生徒さんとなると、時間にいつも追われるのが実情です。エネルギーも時間もお金も、なるべく音楽に、となるのが現実でしょう。私も、友達が観ているテレビ番組やタレントの名前は全く知らずに生活していました。それで仲間外れなんてことはありませんでしたが。
今までの私の生活で音楽の割合をなるべく少なくして、全力で遊んだのが、育児の時でした。私は都会育ちなので、虫も触れなかったのですが、トンボを捕まえ、川で泳ぎ、鳥や星を観察し、工作に絵本に、と自分のためだか、子供のためだか分からない位、楽しみました。
そうした時期が過ぎ、また音楽に戻ってこられて、自分も少しは成長しているかな、と思います。(そして、何と言っても、楽しかった!)
生徒さんにとっても、音楽が受験やコンクールなどの短期的なもののためだけでなく、一生の流れの中でずっと寄り添っていく友達となってくれればいいな…と願っています。
(2017.3.16)
5月に生徒さんの発表会をします。今回は、ソロだけでなく、プロの演奏家をお招きして、ピアノトリオを演奏します。
初めはトリオに余り乗り気でなかった小学生のAちゃん。私が何回かレッスンした後でヴァイオリンやチェロと合わせることになっているので、私がレッスンの度に「ここでヴァイオリンがこう歌う」「ここでチェロがごおって鳴る」とか言いながら、メロディーラインを歌ったり、ピアノで弾いたりしています。
先日、「家で練習している時も、先生が歌ってるのが聞こえてくる」と言います。「えっ、すごくいいね!じゃあ、ピアノを弾きながら、自分で歌ってよ。」と言うと、「それは難しいからできない」「じゃあ、私がピアノを弾くから、一緒に歌おう」ということになりました。
そのあたりの台に登り、Aちゃんオペラ歌手の如く、身振り手振りで、歌いだします。途中から何故か指揮者にもなってきて、歌いながら指揮をし、「そこはちょっと小さく!」とか指示まで虚空に向かって出しています。二人でノリノリで大いに笑いながら曲は終了。勿論、拍手喝采、ブラヴォーの嵐、のはず。
別のヴァイオリンの生徒さんに、歌曲をヴァイオリンで歌う、というプログラムを進めています。複雑なパッセージを速いテンポで弾くのとはまた違う、技術や思考、感性が必要とされると思います。素手で音楽に向き合わないといけません。
大げさかもしれませんが、「歌う」喜びこそ、音楽の本質のように感じます。自分自身も、常にそれを忘れないように生きていき、外に向かって少しでも発信していきたいと思います。
(2017.3.1)
大学に入って半年くらいでしょうか、同級生の女子たちで話していました。その時、「私、先生に音楽に色気がないって言われた。」と一人が言い出しました。「あ、私も言われた。」「うんうん、あるよね。」
音楽に一生懸命で、朝から晩まで頑張っている真面目な音大生。皆で考えました。う~ん、色気って何だ?
今なら、セクハラと言われそうな先生方のアドバイス。結局、皆でちょっと背伸びした「大人の」映画を勉強のため、観に行こうとなりまして、ぞろぞろ女子大生数人で映画館へ。
観たのは大島渚監督の「愛のコリーダ」でしたが、果たして、皆の音楽に色気は出たのか、出なかったのか…。
大人になってから、女優の岸田今日子さんとお話させていただく機会がありました。その話をすると、「馬鹿ね~、ホントに馬鹿ね~」と笑われました。
岸田さん、その時も本当に魅力的な方でしたが、お若い時の映画の妖艶な色気ったら。で、しつこくお尋ねしました。「色気って何ですか?」
「心に深く感じることよ。」そう、おっしゃいました。感動と同義語であると。
深く深く、納得しました。
(2017.2.8)
今、ソナタ形式について教えています。ソナタ形式とは、提示部、展開部、再現部の大きく3つの部分に分かれ、再現部では提示部で示された主題が調は変化しますが、戻ってきて、曲は終わります。
そういったことを中学生のころに、作曲の先生に習いました。先生の教えてくださる音楽の世界がとても面白く、広々としていたのに感動して、その先生の元で勉強したいと大学も決めました。
娘のように可愛がっていただき、大学卒業後もお世話になり、私も大人になったある日、そうだ、と思いついて、先生に電話して、お食事のお誘いをしました。
待ち合わせ場所は自分もかつて通っていた、先生が子供たちに教えておられる教室です。大学に入ってからは足を踏み入れることもありませんでしたが、先生が話す様子も、空気もあの頃のままで、タイムスリップしたような錯覚を覚えました。その時突然、「これは再現部だ」と思いました。
食事しながら、先生に、「先生、私がご馳走させてください!」と私は張り切って言いました。先生はにこにこして、笑っておられました。楽しくお話しながら、「再現部だ」という感覚がずっとありました。お勘定の時に「私は先生のおかげで音楽の仕事ができています。今日はお礼がしたいのです」と言いましたが、先生は笑って、取り合わずに私の分まで払われました。
新幹線の駅まで送ります、と言ったのに、また笑って逆に私の乗る駅の改札前まで送ってくださいました。にこにこ手を振ってお別れしたその日が先生にお目にかかった最後でした。急な病気でお目にかかることは叶わず、旅立たれました。
…ソナタ形式を教えながらいろんなことを思います。
私は生徒さんたちに音楽の楽しさを、広がりを伝えられているかな。
(2017.1.24)
今日、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の短い楽章を教材として取り上げました。第13番作品130の第5楽章です。カヴァティーナというこの世のものとは思えない位美しい音楽です。和声や構成の分析に加え、異なる楽器の間の声部の受け渡しを探しました。例えば第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンとで「そうだよね」「そうね」と微笑みあっているような箇所がとても多いのです。
ところで、作品130という数字はベートーヴェンの最晩年の作品であることを示します。交響曲の最後の作品の第9番が作品125、ピアノソナタの最後の第32番が作品111。
ピアノを弾く自分にとって、ベートーヴェンの晩年のソナタ、特に最後の3曲、作品109,110,111は信仰というか偉大なものを仰ぎ見るような畏れのような感覚があります。その最後のピアノソナタよりも交響曲第9番よりも、後に書かれた音楽の、人生を顧みるような温かい眼差し。
苦労人だったベートーヴェン、人生の終わりに見たものは何だったのでしょうか。
若い生徒さんたちは、偉大な老大家が死を前にして書いた音楽からそれぞれ何を受け取ったでしょうか。
(2017.1.23)
先日、幼稚園児のお子さんも含めた生徒さん数名を集めて、ジプシー音楽(今はジプシーという呼称ではなく、ロマ民族と呼ばれることが多いのですが、音楽の分野では、ジプシー音楽は一つの優れた音楽の分野として確立されているので、あえてその呼称をここで使います)とハンガリー音楽の講座をしました。
クラシック音楽の作曲家が魅了され、自作にも取り入れたジプシーの音楽とは。それとよく混同されるハンガリー伝統音楽とは。いろいろな音源を使い、話し、聴きました。ジプシーバンドの演奏は、クラシックの演奏家が弾くものとは違い、即興的であったり、アンサンブルが自由であるけれど決めるところは決めてあったり、聴きながら笑みがこぼれ、楽しんでいました。ハンガリー伝統音楽は、クラシックの調や拍子の感覚とは随分違い、新鮮だったようです。
このような音楽の話をレッスンですると、音楽を専門に勉強している生徒さんでも、普段接している音楽の分野が案外限られていることに気づきます。以前、三善晃のレクイエムを音楽科の高校生に聞かせると、様々な感想がありましたが、中に、「こんな音楽のジャンルがあるということすら知らなかった。」というのがありました。音楽を学ぶ生徒さんは練習やレッスンでとても忙しい日々を送っています。しかし、出来たら今練習している曲以外の音楽を聴いてみる、違う分野にも興味を持つ、展覧会に絵を見に行く、本を読む、勿論友達と遊ぶ、美味しいものを作って食べる(笑)…と豊かな生活を送ってくれたらいいなあと思っています。
…私自身もそうありたいと心がけます。
(2017.1.18)
京都在住の二胡奏者の杉原圭子さんのコンサートに行って来ました。とても説得力のある、素晴らしい演奏会でした。杉原さんとはいろいろなジャンルの音楽の編曲を通じて、ここ何年かとても楽しく刺激のあるお付き合いをさせていただいています。この日も、私の編曲の作品が1曲演奏されました。
曲は芥川也寸志さん作曲の映画「八つ墓村」の音楽です。依頼された時は驚きましたが、ビデオを借りてきて、観て、聴いて譜面を作るうちに夢中になってしまいました。
普段はほとんどが外国の作曲家の作品を演奏するので、日本人の自分はいつも外国の文化を理解していく努力が不可欠ですが、日本の風土とか、脈々と流れる理屈ではない血のような本能的なものとか、思い切り自分の根っこのようなものをダイレクトに掘り下げて表現する新鮮でワクワクする時間でした。このような時間をくださったことを、本当に感謝したいです。
(2016.12.12)
ヴァイオリンを勉強している生徒さんに、ソルフェージュを教えています。楽譜の読み方や、和音の事、など教えているうちに、だんだん話が広がって、ヴァイオリンはどうやって音程を作るかという半分物理みたいな話になり、じゃあピアノはどうだろうとピアノのふたを開けて内部を見たり、鍵盤を弾くとどう中の部品が動くか、ペダルはどうだろうとか、わいわいやって…。
先日は、「ドレミは誰が作ったの?」と聞かれて、ピタゴラスって知ってる?三平方の定理って習った?と、また話はどんどん広がり、「平安時代にピアノはなかったの?」と聞かれ、次は歴史の話に広がり。
音楽の話は、とっても楽しい。理屈抜きで、楽しい。
(2016.11.28)
先日、「ラストタンゴ」という映画を観てきました。タンゴのダンサーとして伝説のペアの二人の芸術家の生き方、芸術に対するひたむきな思い、二人の愛憎、などドキュメンタリーの部分と若いダンサーによる再現ドラマの混在したとても見ごたえのある映画でした。
ダンスが何といっても美しい!タンゴというとセクシーで悪魔的で、と思っていましたが今回は何と人間的だろうと思いました。貧しい庶民の娯楽として生まれ、隆盛していったタンゴ。綺麗事でない登場人物の生き方にも重なりました。
今、ピアソラの音楽を編曲しているので、いよいよ楽しく考えられそうです。
(2016.10.6)
クリスマスに関西音楽院にてコンサートをさせていただきます。
音楽院院長でチェリストの堺安志さんと子どもたちをとびきり喜ばせたいと相談の結果、近代フランスの作曲家プーランクののピアノ曲と絵本で「いえでだブヒブヒ」を堺さんの語りでやろう、ということになりました。音楽家なら誰でも語り位やれるでしょ、なんて大間違いです。演じるということでは同じですが、言葉の緩急や間合い、声の高低にユーモアのセンス。
お洒落なプーランクの音楽にのせて、楽しく粋にやりたいです。
実は途中で語りとピアノが歌い出すところも作ってあります。
他にチェロとピアノでクラシックの小品の楽しいのを沢山入れて、子どもたちがわくわくするようなコンサートにしたいと思っています。
(2016.9.26)
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